Time was not rape (!!!)
今ではあまり引用されることはないだろうけれど、フロイト理論に於ける「言い違い(Freudian slip)」につて、昔は随分とあげつらわれたものだ。
抑圧された無意識の願望が、失言という形でポロっと漏れてしまうというのだ。
たとえば、姑が病院の検査から戻って青ざめた顔で「私…、癌だって」と言ったとき、本来なら泣きそうな顔で「まさか、うそでしょ」とか何とか言うべき筈の嫁が、「が~ん」と満面の笑顔で駄洒落をかましてしまったり、
あるいは、美人の上司に叱られて、「すみません、許してください」と言うべきところ、「すみません、やらしてください」と言ってしまったりと
枚挙にいとまがない。
そういう意味で言うと、無茶恥ずかしい言い違いをしたことがある。
随分昔だが、取引先のアメリカ人の副社長とタクシーの中で話をしていたときのことだ。
彼女は40代の、いわゆる美魔女で、私はまだ30歳そこそこだっただろうか。
「このタイミングで御社と提携できるのは、まさにベストだと思います」
私は、やたら開いた彼女の胸元から目を反らそうとして話していた。
そして、「昨年の段階では、期はまだ熟していなかった(time was not ripe)」と言おうとして
Time was not rape.
と言ってしまった。
どうして「ライ」が「レイ」になったのかは、わからない。
その逆なら、「実は私、オーストリア人なのです」と言い逃れることはできたかも知れないが…
くだんの副社長は、視線を車中に漂わせ、何事もなかったような素振りを続けていた。
恐らく、頭の中では、夕べの食事の内容だとか、アル中で入院中の叔父さんのことだとか、『もーれつギリガン君』に出ていた女優は誰だったか、とか、
とにかく私の失言以外のことを必死で考えていたことだろう。
フロイト理論が正しければ、私は潜在的に強姦願望を抱くサイコパスであり、この世から抹殺されなければならない忌まわしい存在ということになる。
しかし、そんな自覚は全然ないのだ。
悪いことは重なるもので、その同じ副社長と別の機会に会ったとき、”As a matter of fact”と言うべきところ、愚かにも
”As a matter of fucked”
と言ってしまった。
まったく作為はなかった。ただ、何となく口の開きが中途半端になっただけだ。
フロイトのリビドー説から言えば、わたしの言い違いは、まさにお手本のようだが、私としては、単に英語が未熟だっただけだと思いたい。
まったく、恥ずかしい失敗の思い出である。
穴があったら入れたい。
いや、入りたい。
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